The Only SKY


あの空間からこちらへ戻ってきて
再び地に足をつける。
地に足をつけているからあの日の空を想う
もし空に人が住んでいたのなら
きっと大地に恋をするのでしょう。
そして「地想」なんて言葉が
生まれたのでしょうか。

そんなことを想うと
「これまで」の地層に気がついて。
あの空間は空の青に融け去ったのではなく
こうして地層となり
ずっと受け止めて
ずっと跳ね返していてくれたんだと。
あの頃も今もこれからも
そうやって地に足をつけていくのでしょう。


こちらは2018年に行われたLAWSON presents 雨宮天ライブツアー2018 “The Only SKY”への懐旧譚。

 

2018.7.15 act横浜 in パシフィコ横浜国立大ホール

2018.7.29 act大阪 in オリックス劇場

2018.8.5 act新潟 in 新潟テルサ

2018.8.11 act福岡 in 福岡国際会議場メインホール

2018.8.19 act兵庫 in 神戸国際会館こくさいホール

2018.9.2 act宮城 in Sendai PIT

 -------≪追加公演≫---------------

2018.9.15 act中野day1 in 中野サンプラザホール

2018.9.16 act中野day2 in 中野サンプラザホール

 

 


エデンの旅人

「ここはどこだ」
「何あれ」
「神々しい」
「ラスト 帰っていく なにこれ」
という言葉がこの公演でノートに最初に書かれたメモでした。横浜公演初日、曲終りに連番だった方と「何あれ、何あれ・・・!」と興奮気味に囁きあったのを鮮明に憶えています。
 
雨宮
『エデンの旅人』って表題曲で個性の強いエキゾチックな曲で、ライブでもあの雰囲気を再現したくてMVのケープを着て、あれ本物なんですよ。あのときは砂浜で風と闘いながらでしたけれど、今回は煙で怪しげな感じになっています。(中野公演2日目)
と話されていた通り、そこには『歌』という枠組みを越えて表現されたひとつの世界が立ち現われているよう。そこに浮かび上がるのは道なき道を彷徨い重ねてきた姿。

間奏で歩みを進め時折濃霧の中を見回す。「何処へ向かう?」

MVで砂漠を流離う姿が描かれているとおりイメージするのは宛ら砂漠を彷徨う旅人。シルクロードの果ての青。
例えばラピスラズリ。アフガニスタンのごく限られた地帯にしか出土しない鉱石、和名「青金石」、別名「瑠璃」。語源的にはサンスクリットを経由して「ラズリ」という音の響きが残されていることを感じられます。実際このラピスラズリが顔料として日本に入ってきた形跡はなく、正倉院御物の中に唯一、アフガニスタンから運ばれた石のまま象嵌されている紺玉帯にのみ、その青を認めることが出来ます。
日本人にとって『青』は、遠いシルクロードの果ての、彼方の光の色。
なんだかそれを踏まえると、より『青』が遠くの色に僕には思えて、その流離う姿に遠い理想を求める姿を重ねるのです。
そしてとても印象的だったのが、白いスモークが雲のように黒い闇夜に流れ、その白と黒という色味のない明暗の中に『青』が生まれる光景。

その『明と暗』と『青』についてひとつ馳せていた想いがありまして。


  『青』という言葉の語源として2つ説があるんです。

① 大和語のアオ

 「アフ=会う・合う」、もしくはその連用形「アヒ=間(隣り合う)」の意。

② アイヌ語(琉球語)のアオ

黒と白の範囲の中間色を意味する「間(アヒ)」からきているとされている。


隣り合うかのように近くに在る様で、そのどちらに染まることもなく遠さを保ったまま、その間で絶対的な色味を放っている。『青』とはそういう色。


例えば日の光を白、夜の暗闇を黒とするとその間にある日の出や日の入りの空が濃い青に包まれる時間帯を「ブルーアワー」ということを考えるとなんだかそれも『青』の特性として頷けます。

 

さらに、盲目の人が開眼手術を行った際に知覚していく色のプロセスは明るさの『黒と白』から始まり最後に『青』だそうです。白と黒という味気ない世界から様々な色を通して最後に宿るのは青。

 

まるでそれを可視化するようにラスサビで曲中一番の青い空間包まれる姿。

 

モノクロの世界に『青』という色がついていく。


「青に込めてきた意志」とたびたびお話されている御本人をその景色に投影すると、なんだかなんとも形容しがたい気持ちが螺旋を描き空へ昇っていくのでございました。

 

 

Bメロの「儚く舞う/息もできない程に」の「金色のスポットライトが風の流れを照らすのが神々しくて、毎公演楽しみでね。


 

あのスモークを霧と見立てるとして、叙景詩通り『五里霧中』なんですけれど、その霧というモヤモヤ、藻掻きっていうのはなかなか目に見えないものなんだけれど光に照らされるとすごく綺麗なんだなあって思いつつ、そういうのは誰にしても在ってほしいものだし慈しみたいなあと思ったのでした。

 


そして間奏雲間に消えるところ。特に1番サビ終わり上手から見る景色がすごく好きです。

     

手元のメモによると神戸のビブラートの完成度がすごかったらしい。確かに神戸公演は強く歌声がぶつかってきたなあ。

 

そして「確かな理想へと」のロングトーン、そこに込めた気持ちを勝手に邪推しては遠い目になるのでございました。

 

 

期待感の中、風が止む。


Marvelous scene

先程まで自身に吹きあたっていた風(ダンサー)を今度は身に纏い、上手へ下手へ。

サビ前のそんな叙景詩、前曲『エデンの旅人』からの叙情詩が毎公演好きでね。

 

1サビ、体のけぞらせ歌う姿。

2Bの「あの日誓った言葉は」でのダンサーさんの振りが好きだったらしい。振りを思い出せないけれど、多分御本人の周りをぐるぐる台風が纏う雲のように旋回するところだと思うの。

 

 

間奏で立ち込める雲。それはさながら古今集に収録されている僧正遍昭の名歌のようだなと感じておりました。

 

『天津風 雲の通い路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ』

(:大地に吹きこむ天の風よ、雲中の通路をどうか閉じておくれ。天に戻っていきそうな、この美しい天女たちをとどめ今しばらくその舞を見ていたいから)

 

そんな気持ちが微塵もない訳じゃないし出来るならずっと歌の通り眺めておきたいけれど、でも曲中に頭に浮かんだことはそんなことじゃなくて。

 

見てきたもの、願っていたのはそんな『とどめようとする風』ですらその手でなぎ払って進む姿。

 

「迷わず走りだすだけさ」と、輝く世界の中遠い夢を指さす姿はきっと天津風でさへ吹きとどめることはできず、空は晴れわたっているのです。


Silent Sword

イントロとアウトロでの、左右に拳をうつところが好きでねえ。

 

イントロ、静止していたダンサーが歌詞が始まるとドクドク動き出す。「生命の脈動」という歌詞があるけれど、この曲を聴いていると止まっていた何かが動き出す『再動感』がありますよね。

 

アウトロの同じ振りの締めもとてもクールで。

強さというか、折れない誇りというか。誰にも見せない研ぎ澄まされた強さが内面で脈打つ感じ、みたいな。

 

 

サビ終わりの人差し指の抜きと顔横が良かとですよ。

 

そして何度でも大好きなのが2サビ後、間奏のヒップホップ系のリズム取り(語彙力)からのダンサーさんに振りをなげて、それを受け取ったダンサーさんが投げ返してからの「指の先を流れる 生命の脈動は」(専門用語あるなら教えてたもれ)


 

あの部分、上手で見ていると投げた振りがこちらへ戻ってくるのがとてもぞくぞくするのですよね。

そうか、毎公演楽しみにしていたけれどあれ遂に映像化されるんだ。楽しみだなあ。


MC①

雨宮

既に三曲おおくりしましたがめちゃくちゃ強いでしょ?(笑) 「『エデンの旅人』はじまりで歌っちゃうの?!」、「もう『Marvelous Scene』と『Silent Sword』出しちゃうの?!」って(笑) この三曲でこのライブの戦闘力を感じてくれたと思います!(横浜公演)

 

とここまでを横浜公演では満足げに振り返っていましたね。

『エデンの旅人』はじまりは予想外で、この流れで世界観の強い系が頭に続くのかなと思いきや、で一気に転がされたなあ。

 

印象に残った話をあげると、

・新潟公演の「ステージドリンクを八海山にしてください」

・福岡での博多弁まじり

・宮城のオルスタの客密度にびっくりしつつ心配してくれてる姿

・中野2日目での誕生日プレゼントを社長さんやスタッフさんからもらった話

かなあ。

 


RAINBOW

届けるように歌う、っていうよりは届かせるようで。

橋をかけていくようっていうのかな、「そんな優しさ溶けちゃう」って思ってたんですけれども。

     

手を振る姿とか、サビの涙を拭う振りとか、1サビ終わりの大粒の笑顔とか、さした指から虹がかかるような光景とか。


映像作品のジャケットにしてほしいくらいくっきり脳に焼き付いていて、気分が沈んだ時に礼拝していくんだろうなって景色があって。


それは曲終わりの、笑顔で手を挙げるラストシーン。


あのシーンが大好きでね。


夢に対して、理想を宣誓するような、笑顔で。

     


ああいいなあ せいせいするなあ


夢空

【横浜/新潟/神戸/中野day1】

 

優しい。

 

「遠くなったなあ」と思いまして。

それは純粋に遠い存在になったなとかそういうお話じゃなくて、歌詞中にもある「いつか」が遠くなったなあ、と。

 

 

僕が思ってたかもしれないいつかはこの瞬間だったんじゃないか。

 

「この歌声が遠くから聴こえるやさしい“いつか”になる頃はどんな人になっていて、どんな関係で居られて、そこにはどんな景色が広がってるんだろうなあ」と、あの頃は夢空に気持ちを融かしていたりもしたんですよね。


『返す言葉はこれじゃないな/言葉にして返すものじゃないな』って敢えて口を噤んだ『こう在っていてほしいな』っていう景色が最近本当に多くて、このツアー中もそれは例に漏れずで。

 

『こうだったらいいな』って密かに思ってた関係になれつつあるのかなって、信頼してもらえてるのかなって、やっぱり大阪公演のあのMC(あとで触れる)が嬉しくて、何より「私は私のままでいながら、ネガティブがくれた短所の自覚を味方に、ちゃんと変わっていけるように頑張ります。」っていう言葉通り進化して変わっていきながらも、今でもこちらへの語りの中に肌質は変わりながらも“私のままに”とかあの優しさっていうのが変わらずに居てくれるのがうれしいのだよなあ、と曲に集中していなかったりしたんですよね。

 

 

あの頃、これまでと同じように、ひとりひとりに目を合わせながら歌う雨宮天さん。


その笑顔に雲も優しく青に染まっていくのだけれど、なんだろうな、 『夢空』をあんな顔で歌う曲になるとはって思ったというか、あの頃と違ったと思うのはエゴでしょうか。

それは僕の心の持ち方かもしれないし、これこそ言葉で返すべきモノじゃないかもしれないけれど、なんだか、うーん、これまで突っ走られてきた姿を見させてもらってきたから、多分一緒だとは思いたくなかったのかもしれない。それはエゴだよ。

 

こんな顔で聴く曲になるとはと思っていたけれど思っていなかったなあ。

 

新潟公演で見た2サビ前の笑顔、「なにができるかな」の笑顔

神戸ではサビ終わりの笑顔が「あなたらしい」と思ったみたいで。

 

ラスサビ、物語が進んでいくにつれ客席にライトが向けられていく。

客席を、全体を掬っていく。


輝く未来へ「へ」の語気がなんだかとても強く感じて。


連れてくというよりは、それぞれの輝く未来それぞれが行くのを玄関から見送るような。

それぞれを指し優しく見つめる、変わらない優しさ。

 

     

今もこれまでと同じように「いつか」になっていくのだろうけれど、そこから聞こえてくる優しい声、綺麗なメロディがこれからも心を彩ってくれる

 

ばかりじゃダメだと思うのだよな。あの頃の僕と違ってぼくは。

 

 

僕が大好きな劇作家井上ひさしが『道元の冒険』の作中で次のような言葉のチョイスをしていて。


君には誰も道連れはない。

つねに独りいく、つねに独り歩くのだ。

よいか、自分を救ってくれるものは自分よりほかにはない。

師も同僚も単なる橋渡し、

悟りを選ぶのはあくまで自分ひとりなのだよ。

他人は月を指す指のごときもの。

そこに月はない。

月はその指の延長線上にある。

延長線を辿り、月を見るのは自分さ。

 

 

うーん、なんだろうな、こう、雨宮天さんのお陰で僕は波長の合うステキな人たちと出会えたことは真実だし、その点をぼくは死ぬまで言い続けてやると思っているのだけれど、ぼくはその人たちの道連れじゃダメだなって思うし、御本人がぼくの道連れなんて微塵も思ってないし、それ以上に自分が雨宮天さんの道連れじゃダメだなあって、そんなニュアンスのことがずっと頭の環状線をぐるぐるまわっているのだよな。

 

 

『Fleeting Dream』で1本指を天に伸ばしていく振りもそうだし、この『夢空』でのサビ終わり手を伸ばすところもそうだけれど、その延長線上に月があって、延長線を辿り月を見るのは自分、なんだよなって、足掻こうにもうまく足掻けていないけれど、書き遺しておくことでがんばろうっていう決意表明。

 


Glitter

【大阪/福岡/宮城/中野day2】


やっぱりスポットライトの演出が良いですなあこの曲は。

「歌詞からは、「こうしたい」という気持ちはあるけれど、まだ解決しきれないもやもやした感情に苛まれている様子を受けたので、歌い方も気だるくあいまいな歌い方を意識しました。」

と、以前雑誌の記事で語られていましたよね。


それを受けてこの曲はこれまでリリースイベントや“Various SKY”、“Aggresive SKY”で披露されてきましたれど、表現が見るたびに違うなあって感心するのです。「声優として私のできるライブ」と仰られている通り、曲の主人公を歌う姿とは別にそれは何だかその公演の主人公を演じる、というか、その時の『Glitter』の演技を受け取らせてもらっているようでフッフーンなんですけれど。


最後の「トゥルトゥル」が“Aggressive SKY”では客席に背を向けるように歩きつつ、片手マイクで歌われていた視覚データがあるのだけれど、今回の『Glitter』は気怠さがマシマシで、あまり揺れもなく感じられて、そんな風に新しくまた違ったものに感じられて。また曲の世界を膨張させおったな!と。



んー。


福岡公演で強く意識したみたいなのが「ねえ 本当は叶えたいよ」の強い感情で。それは「まだまだいけるよ」も同じなのだけれど、だからこそ「もう大丈夫」も、深呼吸もこれまでになかった、違ったものに感じられたというか。


明日へ光、みたいなものを感じられたのだよなあ。


これまでと違ってもやもやとしているこの曲の主人公に新たに「それでも…!」って気持ちを垣間見たような、そんなツアーでの光景でした。


Fleeting Dream

イントロ前からちょっとニヤニヤ嬉しそうにされているのが嬉しくてね。


うーん、何から話そうか。


ダンサーさんのダンス、歌詞がそのまま可視化されているダンスがとても良かですよね。


Aメロの「涙と淡い思い出/繰り返される日々」の部分で積み重ねていくよいうな動きをして、それを最後なぞっていくような動きが好きでねえ。傷をなぞったりする描写っていろいろな作品でありますけれど、そんな感覚になるポイント。


この曲、ペンがはしっている部分このツアーではなんだかダンサーさんの振りが多くて。

Bメロにはいっていく「投げかけた/いつからだろう」の部分のダンサーさんの、こう、これ、も好きだなあって真似してたり。


そんでもって、んあー、んー、後述。



大阪公演で見た1番サビ終わりの、下手で客席を見上げ「あー」と嬉しそうに口を開いて、2度ゆっくり頷いている姿。

     

福岡公演の上手で見た、2サビ終わりのまるっとか


(ノートには「良かー」と殴り書きされていて、いつも「かわいい/かっこいい」はだいたい「かー」って殴り書きされているのだけれど、福岡のこれは「良か」と「かー」が混じっているんだと思う)。

 


うまく言えないんだけれど、全然終演後話したらわかってもらえなかったけれど(慣れてるしそれもなんだか最近は嬉しい)、ずっと消えないでって、指の隙間から見ていたのだよな。



ダンサータイム

『Fleeting Dream』のアウトロの流れから幕間にはじまったダンサー紹介パート。

 

オールラウンダー:ユキ

ジャズクール:みく

実力派ジャズダンサー:SAIKA

男前かっこいい:キヨ 


楽しそうに踊ってて素敵だったし、とっても楽しい時間だったなあ。


毎公演ソロのダンス変えてるそうで、どの公演がっていうより、全公演圧倒されて「ふおお、すげぇ!」だったのでちゃんと実のある感想を言えないのだけれど。


ユキさんのダンスが個人的に琴線だったのだけれど、キヨさんと双子であられることもビックリしたのだけれど、今お名前の表記これでいいのかしらとInstagramを拝見したところぼくより歳下でいらっしゃるらしくて戦慄しているところです。まじか、あれだけカッコよくて、まじか。


こういう、ひとりひとり名前呼ばれて踊るダンサー紹介、それも各人見せてくれるスタイルが違くて、今後ともこの試みはぜひぜひやってほしいなあ。



中野day1ではこの辺りで歌っていても歌いながら目を奪われることもあるんですよね。でも、1人ずつ名前を呼んで踊ってもらうのは今後もライブでダンサーさん紹介があるなら、私これぜひうあってほしいくらいお気に入りのパートですね。自分出てないのにね(笑)」とお話されていて。

 

誕生日プレゼントをもらった話だったり、話すととても気さくだよってお話とか、ネイルも青くしてくれているお話とか、なんだか嬉しくなりますよね。みんなで楽しく創り上げられているんだなって。


中野day2ではさっき気づいたんですけれど私ダンサーさんのソロのダンスをそっちから見たことがない!羨ましい!ダンサーさんが個性を見せてくれるパートなんで好きなんですよね。羨ましいです。」ともお話されていて。


リハでもらった映像を何度も見て「かっこいいなあ」と思ったというお話をされていたりもしましたよね。


いやあ、この御本人の発言に乗っかるけれどぜひここの部分も映像化してほしいなあ。


雨宮天エンターテイメントショー

 

「Ladies&Gentleman, まだまだショータイムはこれから!唯一無二な雨宮天の世界をお届けします!題して雨宮天 エンターテインメントショー!

 

ダンサーさんが捌けると流れ出したのはそんなアナウンス。

 

「Gentleman』の発音もググって、声優グランプリさんの方でね、連載もやっているから、格好悪いと嫌だなって。(中略)声優ならではじゃないですか、普段積み重ねているスキルをライブに組み込めるのって。」(新潟公演)

 

それぞれの曲に分けて書いていくけれど、このパート後のMCではいつも「最大の挑戦」/「初めての試みが詰まった」というキャプションを付けられていましたね。

「まだまだナレーションの仕事も多くはないですが」と前置きされつつ、今後もそういう声優ならではを取り込んでいくことに挑戦的な姿を見せてくれました。それがとても嬉しかったなあと。

毎公演まさにさまざまな魅せ方で声優雨宮天ならではのライブを受け取らせてもらえてこのパートが終わるときはいつもこの上ない充足感なのでございました。

 

中野day2では初めは消極的だったことを吐露しつつ、あのパートがあったからこそ幅を感じた、ライブっていろんなことをやれるなって思いました。」ともお話されていました。

 

以前雑誌に『irodori』についてこう寄せていらっしゃいましたね。

「歌手になりたいという夢を追いかけてきた人が現実に直面し、悲しみを抱えながらも力強く歌い続ける、そんなイメージのMVです。」

 「赤い衣装の子は“ここは自分のステージではない”と思いながらも気丈に振舞っていて、白い衣装の子はその子の内面なので、どこか弱々しくおびえています。」

 

 

『irodori』ではじまるこのミュージカルパート。

ぼくはこのパートを初日公演からずっと『ひとりの人物の物語』として捉えていたんですけれど、どうやら御本人や周りの人はそうではなくそれぞれの曲の世界、オムニバス形式で描かれているという捉え方の方だったらしく。

 

でも、福岡公演で

「人によっては1つの大きな物語に感じられていたり、ぜんぜん違う人のそれぞれの物語のように感じられている人もいたりするみたいで」と仰ってもらえて、このままでいいんだって最初に感じたことをずっと追求できたんですよね。ちゃんと受け止めてもらえてるようで嬉しかったです。

 

こうしてぼくらの「こうじゃないかなあ」を誠意を持って受け止めてくれる人だなあって、その言葉に想ったんですけれど。

 

まあどんな目線でこのパートをひとつの物語として捉えていたかは文字じゃ伝わりすぎる部分と伝わらない部分があるので適当に脳の中を図解。

 

irodori

あらー


と横浜公演のノートにダイニングメッセージめいたものが。焦らされた?挙句「今まで着たことがない感じの衣装」としてあんな姿で出てくるなんて飛ぶ鳥も漆黒に堕ちますよそりゃ。


中野day2ではファイナル公演ということでようやく明かせる話としてマイクの試行錯誤のお話をされていましたね。

「『irodori』のマイクも実際ちゃんと生きてて最初は偽物の、ヘッドセットをおろしてね、ヘッドセットで歌ってみたんですよ。でもやっぱりそのマイクで歌った方が見栄えがいいよねって。」

 

そのマイクスタンド握り締めて歌われる姿、特に2サビ終わりの「イヤリング」でマイクスタンドをなぞり下ろしていく指に脳は色を失っていくばかりでした。


ぼくはこの曲の主人公以外みんなカラスだと思っていて(客席も)、それはもちろんダンサーさんもだったりして。

そのカラスたるダンサーの影よ!! 


今回初めて!!マーク使った気がする。多分もう使わない気がする。それくらい主張したいってことだ。


シルエットがねえ、ワルかっこいいんですわ。

特にサンプラザ中野っていう会場は左右の壁にとても良質の影ができやすい会場だってことは徒然草で兼好法師も仰っていますよね。


イントロの音が途切れる間の上手の壁に映るダンサーさんの影、サビ終わりも同じようなリズムの部分があるけれど、今度は下手壁に映るダンサーさんの影がそれはもう大きくて威圧的で悪くて見事でねえ。


上は特に中野でめちゃくちゃ楽しんだ部分なんだけれど、他公演でも、例えば2Bでダンサーさんが下手から移動していくときにドア窓に映る影とかすごく好きでしたね。

 


そう、そのドア窓に映る影はもちろん歌唱されている御本人の影もある訳で。歌っているのがMVでいう白い衣装のあの娘だと置き換えるのならば、ドア窓に映る影は、なんてことを楽しんでました。


2Aの「一粒の言葉」の『ば』の抜き方とか、「あなたは誰」のスポットライト一点もラスサビでの「ダンス」の張りとか、やっぱりライブっていいなあと思いました。

      

印象に残っているのが神戸の『irodori』で、なんだろうな、空間としてすごく赤かったなあ。仙台はオルスタだったから群れて寄ってたかるカラス感あってカラスカラスしてて自分のイメージの中の曲と合ってて面白かったです。

 

ぼくは最後の「密やかなブルー」は曲の主人公の中だけに密かに芽生えるものだと思うけれど、純粋にブルー綺麗だなあと、半身で客席とステージ上の関係を眺めておりました。良かね。


irodori」があったおかげでそこまで不自然じゃないはず。だからホントにこのアルバムはシングルの流れをちゃんと汲んでいて。私の中では、「irodori」と「Eternal」でいろいろ無理やりこじ開けた感があったんですよ。もしあのとき日和ったりしていたら、今回のアルバムはこうはなっていなかったでしょうね。


Shu!Bi!Du!Ba!

ノートが「かー」「かー」言ってるんだけれど多分カラスではない。 

「ふー」「ふー」ノートが漏らしているんだけれど可愛さに火傷しているんだと思う。


1A、下手に移動するとドア窓に映る雨宮天さんの影。

「ルールはない街」のフリフリで思考回路は無秩序になるので毎回必死に舌を噛んでいたんですけれどね。



『東京ブギウギ』が好きでその曲に似た雰囲気を感じ、「あ、多分、この曲、好きになる」と1回聴いて惚れ込んだというこの曲。アルバム発売を受けてのニコ生では歌い方も女性を意識したことを明かしつつ、その点においてはナタリーの記事でも言及されていましたね。


『この1曲の中で、ノリノリなかわいらしさと、大人っぽさ、そしてちょっとだけカッコよさも出したくて。思いっきり主人公になりきって、気持ちセクシーだったり、「今夜は楽しんじゃうわー!」みたいなテンションだったり、自分がこの曲から感じた要素を全部詰め込みました。視覚的にも、主人公が見ているであろう世界をイメージして。例えば「エデンの旅人」では夜の砂漠でたった1人で声を枯らして叫んでいたけど、「Shu!Bi!Du!Ba!」ではキラキラしたダンスホールでマイクを片手に歌っている、みたいな。』

(音楽ナタリー:『雨宮天 攻撃的に振り切ったアルバムに広がる“Only”な世界観』より)


この曲もかなり産みの苦しみがあって、大人っぽく歌うのか可愛く歌うのか、どちらでもね、歌えると思うんですけれど、お姉さんで歌うのか「今日は飲むぞ!」っていう、ん?(笑) 乙女でね、可愛らしく歌うのかってなって、結局私はよくやるんですけれど「どっちも取りたい」ってやつで1番は可愛く2番はワインを飲んだり大人っぽく歌うことになりました。(大阪公演)



その言葉の通り、1番はこの夜の世界を楽しもうとするちょっと背伸びした『ノリノリなかわいらしさ』がありつつ、2番はセクシーな少し何かを知った『余裕のある大人な感じ』が共存したこの曲。


実際歌唱でもその部分は声色を変えて演じられていましたよね。1番とはギャップの効いた2番の「別世界入り込んでみようか」の声色とか好きで、声優らしい、声優ならではだなあと、すごいなあって思っていまいした。



また、声の演技だけでなく2番ではグラスを傾けたりカメラを提げたダンサーさんが顔を見合わせ「見てみてあの子」と頷き合っていて「ゴシップも今日は歓迎さ」と大人の余裕や魅力を振りまいていたり、サインを求める声に応えたり、 口紅を試し塗りしたり。

そう、上手端から見るこのとき鏡に映る雨宮天さん。いい映像撮っているんでしょ、楽しみにしていますよ。

 

そういう、『楽しく歌って踊ろうよって曲なのにカッコよさも持っている』、『若さと大人の艶感のある楽しさ』という両面を持っているというこの曲。


サビの手を甲にのせる部分はとても『少女の願い』って感じだし、手のふわふわとか、「踏み込むステージ」の脚の危険なやつとか、強烈すぎる振りですよね。可愛すぎて倒れそう。でも良かですよね、ああいう、まさに楽しく歌って踊ろうよって感じがして。



ヘッドセットのお話の中では、最初3から4種類用意して全部で歌ってみてどれが歌いやすいか試したということを明かされましたね。その話に代表される通り、御本人にとってもスタッフさんにとっても挑戦だったということを中野day2でお話されていましたけれど、中野day1では


雨宮
それでこの曲をライブでやるってなったら、突っ立って歌うのもなんか違うってなって、ヘッドセットをつけてね、初めてのヘッドセットをつけて何だかActっぽい感じになりました。そういった意味でもいろいろな挑戦を私にくれた曲でもありますね。今日のこの光景を思い出しながら聴いてくれたらと思います。(中野day1)

と手応えをお話されていました。そうやって『挑戦』の手応えをお話してくれるその光景はとても、幸せなんだよなあ。



ニコ生でも自身が歌われる曲について『暗い/かなしい/かっこいい』曲が多いことを挙げつつ、『明るい/楽しい』は少ないとお話されていましたよね。それについてはいくつかの公演でもMCでお話されていて、大阪公演では


雨宮

私にしては珍しい、かわいい天ちゃん成分の強い曲になったんですけれど、よくリリイベのアンケートでもね、「かわいい天ちゃんを見たいです」って書いて頂いてて「そんなのやるかーい!」って跳ねのけてるんですけれど(笑) ユニットの方で、TrySailの方でそういうのは出していると思うので、どっちも知るしかないねって(笑)


と、「かわいらしい姿を」という声を跳ね除けていましたね。


何でも受け取るし、今のアウトローにどんどん投げ込んできててそれを狙いに打ちに踏み込んでいったらインハイに豪速球がきて顔面にくらうのが好きなので、変わらずどんどんアウトローに攻めてたまにピンボールを投げてきてほしい。




ここからはぼくがこのミュージカルパートに収められたことで感じたこのライブだからこその曲の印象なんですけれど。


御本人も仰っている通り、この曲には1番と2番でそれぞれの人物がこの曲を歌っていて。


でも、音源を聴いたときからぼくは同一人物のように受け取っていて、年月が経ってもずっとspotlightを探している、そんな人物のように映ったのです。それは多分ぼくが『東京』をそんな場所として感じているからだと思うんですけれど。



ナタリーの記事でも

『「Shu!Bi!Du!Ba!」の主人公が探している「光」は理想や希望ではなく、歌詞に出てくるように「Spotlight」ですからね。「東京」という具体的な都市名が出てきたり、グッと現実世界に引き戻された感じがあります。それでいて、現実世界で見る夢の世界みたいなところもあって。』


とお話されていて。


「Spotlightを探してる」

 

この曲って、この歌詞をどうとるかで大きく変わる気がして。ラスサビで歌っている場所がそのステージなのか。僕は曲終わりまでずっと探しているように歌詞からは感じたのです。御本人がそうじゃないと言われても多分僕はそこをそう解釈して自分の生活に溶け込ませて「がんばらなきゃな」って血肉にしていくのだろうけど。


Spotlight


東京ってそういうものを探す、探しに人が集まってくる場所なんじゃないかなって。



「失くすもの もうないから」

「孤独の道中」

 

音源を聴いた時、タイトルや曲調から感じる印象とはまた別に何かダークな感じを受けて。

それって、東京で生まれ育った人が感じられない、僕らが抱いていたあの「東京」への気持ち/「東京」にきて抱いた気持ちに似た何かなのかなあと。


華やかな世界の下ではみ出さないように必死で並んでるあの感じ、我こそ先にとすしづめ状態なあの感じ、応募者多数で抽選開始みたいなあの感じ。


ステージで見た大ラス前のシルエット 、「少女の願い」。そんな風に、この曲は東京から「東京」への現実逃避みたいにも感じられています。

 


Spotlight、見つかったのかな。見つかってるといいなって。

多分それはライブでわかる気がしてたというか、ライブが『そのspotlightが当たる場所』だとぼくは考えていて。

 

そして「見つかった」と思ったんですよね、初日横浜公演で聴き終えた瞬間は。

実際曲中とてもスポットライトの下楽しそうで、「よかった、見つかったんだ」と思ってたんですけれど

   

 

んー、なんだろう。


ぼくはこの曲、だけじゃなくてこのパートの物語を1人の人物の物語としてこのツアー中はずっと捉えたのです。


でも、このパートで歌われるそれぞれの楽曲にはそれぞれの人物がいて、そこにはそれぞれの抱えているモノが在って。

そういうそれぞれの立ち位置に立つ人物たちのオムニバス形式な物語、として捉えることもきっと楽しかったんだろうなあ。


羽根輪舞

『羽根輪舞』がはじまると「見つかっとらんやんけ…」って。


『夢見た東京』から一気に現実の東京に引き戻されたって感じをぼくは受けました。


目の前に見えていた景色。

         

雑踏。

さっきまで踊ってた人たちは空想、夢物語で。

 

道行く男女。

紡がれる行きすがりの恋。

 

成就しなかったり、腕を組んで歩いていたり、それは本当に「行きすがり」であって雑踏、「東京」はそんな場所なんだろう。

 

そのときそのときで、踊る人は人それぞれで。

 

そんな影が、ドアに身を預ける姿をいろんな影がなぞり抜けていく。



大阪公演だったかな、「ドアに南京錠かかってる?」って思ったのは。

結局どうやらマイクスタンドっぽいんですけれど、最後までぼくはそこで考えたことを捨てたくないので、そのままそこで得たものに月明かりを当てて影を伸ばしていくよ。


ドアに鍵がかかっているということ、それを抜きにしてもいいんですけれど、彼女がいるのは内側の世界。

それが閉じこもりなのか、閉じ込めなのかは最後まで、今まで判然としていなくて。そんな曲かなあとぼくはあの情景を受け取っているのです。

 

あの日の想いが閉じ込められているのか

あの日の想いに閉じ込められているのか


「あの日の想い」はつまり「このパートをずっと1つの物語として捉えいたぼくにはそう感じられるんですけれども。


んー、なんだろうな。


あの日の想いが閉じ込められているのか

あの日の想いに閉じ込められているのか


自分に置き換えると、どちらもそうだなと思うのです。

そのときの踊り方によってあの日の思いが閉じ込められることもあったり、あの日の想いに閉じ込められることも。


突き詰めると、誰に閉じ込められているかって。自分になん

自分が世間から隔離された感じがする、そんなときって突き詰めるといつも自分であの日の思いを閉じ込めたり、あの日の自分に閉じ込められていたり。さっき通り過ぎていった影にもきっとそんな姿はあって。

 

閉じ込められている自分

閉じこもっている自分

 

 

外の世界に憧れる、うーん、「憧れる」なのかなあ。結局ぼくらは閉じこもっているわけにはいかなくて、耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らすわけにはいかなくて、外の世界に出ざるを得ないってこともあると思うんだけれど、うーん、そんな言葉の絆創膏で埋めようとしているけれど、やっぱり外の世界への憧れはどんなに小さくてもあると思うんだよな。


外の世界に憧れる彼女は、曲の最後でドアを開けて出ていくわけで、でも「関わりたい」けれど最後まで関われない。

 

描いていた、憧れていた景色は交わらずに崩れていく。



このパートにおいては『羽根輪舞』はそういう情景感じさせてくれたんだよな。



福岡公演では劇団四季あるしロングランしてくれないかなあとすら思っていた、素晴らしい流れでした。



誓い

1番はピアノ伴奏、上手端で光に背を向け歌う。

誰もいない暗闇に向かって。


暗闇を照らすようにガス灯に火が灯ったとき、閉ざした胸の奥の凍りついた気持ちが溶けていく。


刹那、パッと視界が明るくなる。

包まれていた暗闇が星空であることを知る


そんな星空を宿した想いとともに散歩するかのような2

サビは一段と力強くて。

 

ラスサビ。端っこで誰もいない方を向いていた頃とは違い、センターステージに立つ。

そこは探していたspotlightでもあり、あの日の想い。

その後ろ姿を指す光は客席へ届けられていく。

 

その眼前に何もなかった頃と違い、大きな光に包まれて歌うシルエットが、もう。


 

神戸公演はなんだか抑揚が強く感じられて。それは神戸公演

前日が『劇場版七つの大罪』舞台挨拶だったからかは分からないし、それはこちらが勝手にそれを念頭に置いてしまったからかもしれないけれど、神戸公演はなんだかとてもエリザベスを感じたのでした。

 

暗闇に向かって メリオダスがいない、行き場を探している1

 

メリオダスとの日々に思いを馳せ、探し歩き誓いにも似た決意を見つける2

 

メリオダスを見つけ、声に気持ちを融かすラスサビ

 

穏やかな優しい笑顔に、エリザベスの大切なひとたちを想う慈愛を感じたのでございました。



密やかな意志、spotlight、あの日の想い、あなたの勇気。ガス灯に宿す火は人それぞれで。


ぼくにおいてはそれは雨宮天さんだから、閉ざしていた胸の奥の気持ちを素晴らしい景色に融かしてくれたのも、その手で生きる奇跡を与えてくれたのも雨宮天さんなので、なんだかそこでいつも喉奥が痛くなるのでした。

 


人の横にいれるのは言葉だなって思えて。謎ポエムはじまりますけれど。


んー、でもわざわざこれは返すべき言葉じゃないなあ。

ぼくが在って欲しい姿はちゃんとそこに居てくれているので。 


たとえ世界が終わってもその姿が在ってくれれば、そんなときに今みたいな応援ができると嬉しいなあ。

 

 

あなたの勇気だけが溶かすことができるモノが在るってことを伝えたくて、こうしてもう何時間も夜空を見上げて見えるはずのない東京の星空を眺めているんですけれど。



『星』の元になった言葉をぼくは「欲しい」だと思うんです。


遠く手の届かない光り輝くモノを見てぼくらは「あれ欲し」「あれ欲し」「あれ星」と手を伸ばす。


その伸ばされた手は星と同じように尖った箇所が5つあって。星からみればそうして伸ばされたぼくらの手のひらが無数の星々に見えるのかもしれない。


だからきっと星に手を伸ばす理由は星と手を繋ぎたいから。

星は実際は太陽と同じような大きな恒星で地球から見えるのは何千年も前にその星から発せられていた光のお陰。そう考えると、星っていうのは『光』でもあって。


星の光が届くのはきっと伸ばされた手のひらと手を繋ぎたいから。


この曲を聴いているとその慈愛にも似た夜風を感じながら星と握手した気持ちになるのです。


暗闇に置かれた星もひとつひとつでは孤独で。

でもそうやって星と星とが手をつないで星座となり、物語がはじまる。


そこに架ける願いは人それぞれだろうけれど、願いが叶うっていうのはそういうことなんではないでしょうか。


そう、もう拳を固めて自分から閉じこもり独りぼっちになることはないんだと、拳を解かれあなたの青に融かされていくばかりなのでございました。


MC2

横浜公演、鳴り止まない拍手。

拍手って相手を『肯定』してあげるものだと思うんですけれど、あの場のあの瞬間は本当に『肯定』で満ち溢れていて。そこで遠慮がちに戸惑いがちに、でも浮かぶ笑顔が嬉しかったなあ。

 

雨宮 

ありがとうございます、ありがとうございます。やめて、大丈夫です、まだ途中なの!() すごい、緊張したの。(中略)これが大きな挑戦のパートだったんですけれど、みなさんの笑顔や拍手で「やってよかった」って思いました。私の挑戦を肯定してくれる人の前で挑戦できてよかったです。

 

 

横浜公演の、初めてあのパートを披露した後のあそこがやっぱり、受け取ったモノを純粋に濾過された景色みたいで、このツアーですごく好きな光景の1つなんですよね。

 

中野day2ではこのライブがさまざまなスタッフさんやダンサーさんたちの職人技で支えられていることをお話されていました。特に横浜初日のこのパートは「やれるのか」と、みなさんすごく緊張されていたとか。その事はリリースされる映像作品に収められていると思うので内容は触れませんが。

 

だいぶ持ち込んだ考えを反映してもらったというセットリスト。そこに気がつけば次回の会議ではスタッフ打ち合わせで決まったという備考欄に「カミナリ」「煙」「ノイズ」が加わっていて大変驚かれたとも。

 

ヘッドセットも「無理です!」って思ったことを明かしつつ、「やるしかなかった、やるしかなかったっていうと消極的ですけれど、そうじゃないな。うーん。怖いのもあったんですよ。新たな試みもたくさんあって。」とお話されていて。

 

でも、最終的にこうして「やって良かったな」って言ってもらえることがなんだかやっぱり嬉しくて。なんだかずっとそう言ってもらうことが嬉しくているなあって思うんですけれど。挑戦の先に、いつもその言葉が居てくれたら、いいなあ。

 

話が脱線したけれど、1公演ずつ、「もうちょっとこういう風にしたほうがいいですよね。」ってスタッフさんとも話をしながら改善していったという今回のツアー。

そういうさまざまな職人さんたちと作り上げてこられたツアー。

 

なんだか思い出したのは『雨宮天ファースト写真集 ソライロ~青と旅する~』リリースイベントで仰っていた顔見知りのスタッフさんたちと楽しく撮影したっていうお話からの「やってみて良かった」だったり、アルバムの映像特典として付いてきたスタッフさんたちとの撮影風景だったりするんですけれど、たくさんの人と楽しく真剣に何かを作り上げている姿がとても眩しくてカッコよくて、嬉しくてなんだかその姿はまさによく発言されるとおり「青春」だなあと思うわけなのです。

 

どこ目線か謎極まりないんですけれど、また後でここに関しては触れると思うんですけれど、みなさんありがとうって思うしそういうかんけいで作られた作品だからこそ純粋にぼくらの心を濾過してくれるんじゃないかなあと思うのでございます。

 

 

雨宮

ライブや【曲】に限らず、このお仕事ってどれだけ全力でやってもどれだけ真面目に頑張っても上手くいくとは限らないなって感じているんですよね。そんな中でも仕事柄成立させないといけない立場で、「もっとこうできたんじゃないか」って、私アフレコを1回も満足で帰ったことってないんですよ。「あれで良かったのかな。」って思いながら毎日帰るんですけれど。アフレコって正解がないじゃないですか。でも、少なくともみなさんが目の前にいてくれるライブは楽しむことを達成していきたい。みなさんにとっても私と、私が好きな人たちが集まったみなさんとの【楽しい】時間を作っていける人になっていきたい。しっかりとみなさんに届けていきたいと思います。辛い時、みなさんを励ます曲になればと思います。(福岡公演)

 

 

雨宮

喉を痛めてからアルバムの制作も止まり辛い日々でした。でも、痛めたことでみなさんがどれだけ私の声を必要としてくれていたのか、どれだけ待ってくれているのかを感じる日々でもありました。これからも待ってくれている人に届けていきたいと思います。(新潟公演)


GLORIA

ちょっと洋楽な雰囲気でピンとこなかったというこの楽曲。

仙台公演ではスタッフさんから『そろそろ挑戦してみない?天ちゃん似合うよ』と言われ「似合うよ」って言われたらと挑戦に踏み切ったことをお話されていましたね。


アルバムの中でも挑戦の1曲であったこと、さらにレコーディングは1発目だったこと、バラード調なのかそれとももっと力強くていいのかどれが正解か分からなくてレコーディングでは苦戦し苦手意識が最初は強かったと、少しぼく自身は意外なお話を頂きました。

 

それでも、出来上がりを聴いたときは「自然と新しい私が出ているなと、1つの新境地だな」と感じたられたそうで、そして「挑戦して良かった」と言う表情がやっぱり嬉しかったです。

 

これまでずっと曲の主人公を演じるという「声優として歌いたい気持ち」、歌と演技の幅の広がりの循環を掲げてこられた雨宮天さん。

 

さらに仙台公演では「正直まだ進化といえるか分からないんですけれど、心の持ちようというか、歌い方こういうのあるんだっていう、自分の中に変化を感じています。」と掴んだものをお話されていましたね。

 


雨宮

今では好きな曲で、ライブではその時その時の私の気持ちが乗って、公演ごとの違いが1番出てる曲じゃないかなと思います。今日だけの『GLORIA』。」(仙台公演)

 

その言葉の通り、各公演の、そのときだからこその想いの後に描かれるこの曲はそのときだからこその輝きを放っていました。

 

 

雨宮

思うようにいかないこと、うまくいかないこともあったし、人前で歌うことも怖いし諦めそうになったこともあるんですけれど、でも歌が好きで、【歌が好きっていう】その次に、好きだからこそ苦手だなって。(中野day2)

 

 

特に中野day2でお話されていたことで強く今も思考を支配しているのは『好きだからこそ苦手』という言葉。好きだからこその苦しみ。

その事については時折いろいろなところでお話されていましたね。その中でもやはり印象に残っているのが


 

『もともと歌は好きで、ずっと「うまくなりたい」とは思っていましたけど。でも、「うまくなりたい」と思いすぎて嫌いになった時期もあったので、難しいところです。自分の歌を聴いて幻滅しかなかったというか、絶望してしまって()それがデビューするということになると、もう歌から離れるわけにはいかないので、絶望しても練習して上達していくしか乗り越える方法はないから、きっと今よりもうまくなっていけると思うんです。そういう意味でも、デビューできてよかったなと思います。』(月刊声優グランプリ20149月号第1付録)

 

自分のふがいなさが悔しくて、歌うのが怖くなったときもありました。

(リスアニ2016vol.26.1)

 

 

見せてくれてきたその葛藤も苦しみも一端でしかなくて、到底ぼくらじゃ慮りきれないそれらはたくさんあったでしょう。

 

以前とある記事で麻倉ももさんが雨宮天さんを『釘』と言い表した上でこう語っていらっしゃいましたね。

「まっすぐな強い意志があるから。でも、ネガティブなところもあって、ちょっと打つところを間違えるとヘニャ~ってなっちゃいます。」

 

 

これまで見せてきてくれたネガティブさ。でも、そこから感じる色は決して冷たい自己嫌悪の青ではなく、どこか仄かに熱を感じる青でした。

 

「私は私のままでいながら、ネガティブがくれた短所の自覚を味方に、ちゃんと変わっていけるように頑張ります。」

「自分は自分だし自分のこと嫌いな時があっても改善を重ねながら自分として生きていたいし、誰かの自分への理想より自分の自分への理想を叶えたい。」

 

2014年の大晦日のブログ記事2016GWの記事にて語っていらした言葉です。僕が見てきた雨宮天さんは「ネガティブ」と言っても御自身の中でそれを克服しようと藻掻いて、足掻いていける人でした。そういう意味で、僕にとっては近くて遠い『青』みたいな感覚でした。まるで空の青の様に。

 

青という色に込めてきたという『意志』。その持ち前の青さで足掻きながらも立ち止まりながらも前に進んでいける人だと、押し付けじゃなくてね、思うんですけれど。

でも、その青とはまた違ったところで壁の向こうの景色としてこちらを認識してくれていることをお話してくれる機会が増えて、なんだかそれがとても嬉しいのです。

 

 

 

仙台公演では

壁を越えると「まだこんな大きな壁があったのか」と感じる。それでも、いろんな経験をしてきて越えた先に成長がある」と思える

・小さな変化を重ねて、ちゃんと自分の進化に繋げて、苦しいこととか全部糧に演技や歌に繋げていきたい。

 

といった趣旨のことをお話されていたり

 

 

雨宮

強くなれている部分があるなって。強くなれたからこそ、弱いままだなと思うんですよね。でも、それでも強がらないでみなさんにもその弱さをぶつける、その時その時の気持ちを伝える。そうするとみなさんから応援をもらって、ちょっとずつ進んで、それを繰り返してきました。(中略)不器用だなって思うし全然真っ直ぐ描けないけれど私なりのやり方で私の物語を描いてゆきたいです。《拍手混じりのイントロ》(中野day1)

 

 

雨宮

好きだからこそ苦手だなって。このお仕事を始めてからずっとそうなんですけれど、でもそう思えるうちは、みなさんが居るうちは歌っていきたい。ぜんぜん出来なくて、「なんてダメなんだ」って思うこともありますけれど。でも、もともと好きだからこそはじめたことで、もっと上手くなりたい。そもそもこうして選んだ曲って全部その時その時の私が「好き」って選んだ曲なんですよね。だからその時その時の好きをみなさんの前で歌える幸せ、そんな幸せな空間、楽しまなきゃ損なので。《『GLORIA』イントロカットイン》みなさんと共有した11つの瞬間がいつか私の栄光になると信じて叫びます。(中野day2)

 

 

御自身の内に宿した青とはまた違った、その先の遠い青の景色の一部ででも置いてくれたことがなんだか嬉しくて、暗闇が青に包まれていくのでございます。

 

 

イントロのカットインが毎公演本当にずるくて。

その物語はあなたにしか描けなくて。あなたにしか描けない物語のおかげで、「ぼくら」が在る。「ぼく」はあったかもしれなかったけれど、あなたじゃなきゃこうして同じ周波数の元に「ぼくら」はなかったと思うんです。

 

 

 

歌声は公演を増すごとに烈しい叫びとなっていきました。


僕らが慮り尽くせない、彼女が抱えてるもの、感じてきたこと、観てきた景色がスプリングボードとなりこの発露につながっている。ただただ受け取るだけ、ただただ圧倒されるだけ、ただただ、でした。

 

 

 

「光が暗闇を覆うとそこに青が現れる。」と唱えたのはルドルフ・シュタイナー。色彩論としてのそれとは別に、なんだかぼくはそれが真理のように、雨宮天さんと出逢ってからは真理のように思えているのです。

 

暗い地上に降り注ぐその光は青く綺麗で。青という色は身体中どこを探しても見当たりません。 暗黒の世界から「あれ欲し」と手を伸ばして、向こうからやってくる光。それと手を繋ぐことで暗闇は青く包まれる。

 

初めて青の果てへと行き着いたガガーリンは地球に帰還する際こう遺しています。

「空は黒い。一方地球の縁、地平線の際は美しい青い光の輪になっています。」。

 

それは手の届かない象徴だった青の中に、青い光の輪の中にぼくらはすっぽり包まれて生きていたという革命であるとぼくは思うんです。そして同時に暗闇を上から優しく包んでくれている青の存在の認識でもあって。

 

 

この曲はそんな曲だなって思うのです。

 

酷く説明不足。

 

 

この『GLORIA』という楽曲、人それぞれの『あの頃』、不正解だった街に流れていたのはこんなメロディーだったんだと今になって思うのです。

 

「物語は自分にしか描けないよ」という細くも強い意志が織られていますけれど、ぼくはこの曲は俗に言う「救いのない」方の曲だと思うんです。

けれど、そういう「救いのない曲」に救いがないとは全く思わないんです。救いがないことが救いっていう事でもなくて、そもそもそういう分類がおかしくて。

 

存在してくれていることが救いな歌、それが『不正解だった街に流れていたような曲』っていう感覚なんですけれど。

 

不正解も正解もなく絡み合って『今』が在るだけかもしれないけれど、あの頃はあの頃でその時の『今』を不正解だなと思っていて。


誰でもそういう『あの頃』ってあると思うんですけれど、あの頃こんな曲が流れていたんだと今思うと、純粋にとても綺麗だったなと、苦しかったけれど、なくなったりせずにそこに在ってほしいなって思うのです。



哀しみならいつまでもなくならなくて、その憂いはずっと隣にあって、だからこそその発露は優しいなと思うのです。


Trust Your Mind

ステージから吐き出されるスモーク。それはなんだか不正解の街に立ち込めるモヤモヤとして霧みたいで。


「ここから後半戦です!」の一言で『GLORIA』に浸っていた気持ちは一気に引き上げられる。なんだろうな、この人の挑戦はいつもそうやって強引に不正解から引っ張り上げてくれるのだよな。


振りが、Cメロ前のダンスも本当に好きだけれど、サビの振りがたまらなく好きで。

なんだろう、真似してるとしっくりくるということはすごく曲がぶつかってきた衝動と波数が合致しているからだと思うんだけれど。なんか、すごく必至に藻掻いてるみたいな。

サビの振りと言えば、2番サビ終わりの「エナジー」の指づかいと立ち昇っていくモノがグッときますよね。



この曲についてお話されたのは福岡公演でしたね。

アルバム制作に向けて何十曲と聴く中で、候補の中で1番ライブの情景が浮かんだという『Trust Your Mind 』。逆転の一発でアルバム入りが決まったようで、本当にこの曲が入ってよかったなあと純粋に思ったのでした。

アニソンを好きになった頃のアニソンの波動を感じたと数曲その年代の曲も挙げお話されつつ、その女性アニソンアーティスト特有の『低いだけじゃなくてどこか艶がある』ということを意識したともお話されていましたね。同世代だったこともありたくさん頷いたなあ。


ハレ晴レユカイは福岡の片田舎の割にちゃんと中学生のとき掃除時間に流れていたし、そう、それを聴きながら笑っていた地元の友達が初めてライブに、この福岡公演に来てて、とても楽しんでくれて。その友達とまた繋がったのは雨宮天さんのお陰でもあるしありがたく思いつつ、ライブ翌日には踊ってた友達も合わせて懐かしいメンツで飲んだり。


なんだろうな、ほぼ卒業して10年なんだけれど、10年経って地元福岡でそういう巡り合わせになったのは、なんだかあの頃への郷愁を誘ったなあ。


いかん、逆の電車に乗ってしまった。


んー、初めてこの曲のタイトルを見たときちょっと意外だったんですよ。勝手にですけれど、御本人がここまで青に込めてきたものから邪推すると『Trust My Mind』な感覚があったんですよね。


でもそれがライブで一気に『Your』になったんですよね。ん、この場合は『Your』が『My』になったと言えばいいのか、んん、どっちでもいい。 

『Your』に込められた『意志』に力を、「信じてあなたを」というメッセージをもらえたような時間でした。

     


そのメロディーに先ほどまで街を覆っていた霧が融け、世界は晴れ渡っているのでございました。



Eternal

カットインしてくるイントロの畳みかけられるぞわわ感がねえ。感情挟む余地が無い感じで。

 

曲ごとの主人公も意識しつつ、どうしても繋がりでも見てしまうんですけれど『GLORIA』、『Trust Your Mind』、そして『Eternal』、『Abyss』、『Velvet Rays』を経て『ASH/Absolute Blue/Skyreach』の流れがぼくはこのセットリストで1番好きなところだったんですよね。


どんなに固く決意しても上手くいかないことって多くて、むしろそっちの方が日常で。


そんな風に「人生楽ありゃ苦もあるさ」の連続的な感じですけれど、雨宮天さんの楽曲って暗闇の底で聞こえてくる曲と暗闇で光の方へ藻掻く曲が並ぶとすごく互いを引きたてるなって感じるのです。だからこのパートは上がって堕ちてのジェットコースターを楽しみつつ、「それでも・・・!」という意志にくらくらしていたのでした。

 

2サビの「Inside my heart just go ahead」の疾走感、go ahead感がもう音源から大好きなんですよね。あそこの加速度たまらなくないですか?内に秘めた意志で突き進むっていう姿勢も好きで、そうなりたいときにこの部分聴くとググってなれるんですよね。

 

 

それと「諦めないどんな時だって」で一歩前へ進む姿、そして「絶望で未来切り開け」って歌詞というか哲学というか、その思考がとても好きでねえ。

 

希望じゃなくて絶望でしか切り開けない世界、絶望をスプリングボードにすることでしか飛び込めない世界って在ると思うんだよなあ、等々、うとうと。

 

んー、あとCメロのスパロボラスボスの必殺技みたいダンサーが敬意を表すように屈んでいくところとかね、ふおおってなりますよね。

      

青く包まれたラストシルエットがとても格好良かったなあ。


Abyss

「君の声」のロングトーン 奥底からの反響。

 

以前ナタリーの記事で『「Abyss」は内向きの叫び。だから叫ぶ先も、一点に集中させる感じなんです。それに加えて、例えば頭サビの「消えゆく君の声」のロングトーンの部分は、深い闇の奥から聞こえてくる叫びであると同時に、深い闇に向かう叫びでもあるような、どちらとも取れるものにしたくて。』と、話されていましたね。


このライブではまずそのシーンに圧倒されたのでした。

見上げた遥か向こうから微かに聞こえてくるような、谷底へ消えていくかのような。どちらも暗闇に消えていき、なんだかどちらが天地なのか分からなくなるような、落ちて遠ざかっていってるはずなのに、なんだか君の声が近くなっていく、そんな暗闇に一瞬で包まれるようでした。

 

そんな絶望でさへ意味を成せない虚無の中で、「絶望で未来切り開け」と言葉をかけられても現実そうやりきれなくて。やりたいこと、やれないこと、やりきれないこと、ひきかえになくしたこと、それらひとつひとつの色が混ざりあって黒になって。

  


苦境に立たされたときに発せられる“叫び”、「光も音も届かぬ」ような深くて暗い場所に向かった叫びだという『Abyss』。

 

その内面からの叫びには内面だからこそ強い意志が宿っている様に感じられるのです。ナタリーの記事でも外へ発散する様な、対象的な叫びとして挙げられた『Eternal』。その曲と地続きだったからこそ、外向きの叫びは実は自分を鼓舞するための内向きの言葉なのかもしれないとすら思えて。

 


Eternal』の外への叫びと比べても、内への/自分自身への叫びの方が激しさを感じられました。実際、自分に置き換えても内への叫びの方が大きいですよね。

やりたいこと、やれないこと、やりきれないこと。

 


時が進むにつれ激しさが増していく叫び。

 

『自分で意図して出した必死さを散りばめられたと思います。特に最後のサビは「あと少しで もう少しで 指先がきっと届くから」という歌詞にふさわしい必死さを、アニメで演じるキャラクターの台詞に乗せるように表現できたんじゃないかなって。』

 

同じくナタリーの記事でそうお話されていましたね。



Cメロ、最後の叫び。「ずっと1 泣いてた君を もう一度抱きしめさせて」のあの叫びがぼくはこの曲の中で1番目に力を入れて下を向いてしまうポイントなんです。


うーん、なんだろうな。

こう、QUEENの毎日必死に生きてる人間が「愛すべき誰か」がいてくれれば人生に彩りがと愛を求める『Somebody to love』という曲がありますけれど、あの曲で彼が求めたsomebodyって「自分自身」だという解釈もありかなと思ったんですよね。


そんな、自分自身を救えるのは自分自身なんじゃないかなっていう迫り方。



歌詞中の『君』は自分自身でもあるという、まさに自分という内への叫びだというこの『Abyss』。


落ち込むとかそういうところとは別に、『絶望』とか『虚無』ってちゃんと世界を味わうためには必要なものなんじゃないかなとぼくは思うのです。単純に、そんな時間を否定したくないだけなんですけれど。


きっと一度もぐら穴みたいなところに入る必要があって、その中では自分の鼓動がひたすら木霊するだけ。その穴の中では何も聞かずただただ自分の言葉とひとつになる。そうして即身仏になる一歩手前で穴から出てきたときに、見える光は必ずいつもあるわけじゃないけれど、なんだろうな、世界をちゃんと味わうためには必要なものなんじゃないかなと思うのだ。



この曲、眼前にひろがっていた景色に見たのはそういうイメージ。



先程の記事内にもあった、「あと少しで もう少しで 指先がきっと届くから」というラストのサビ。


「必死に手を伸ばすよ」「何度だって抱きしめるよ」の必死に互いに手を伸ばすような、語調もとても強かったこの部分。


Cメロ付近のそれぞれの『君』を探すサーチライトみたいなスポットライト演出がすごく情を揺さぶるなって顔面にラッシュを食らいながら脳が揺らいでいたんですよね。

そのそれぞれの『ぼく』に向けられたサーチライトのハンドルを握っているのはステージ上のあの人じゃなくて、それぞれの『ぼく』なんだよなあ、とリングの上薄れいく意識の中なんとか最後まで自我を保ちつつ思っていたのでした。判定戦。


ビデオ判定の結果ファールだったのでまだまだ続くんじゃ。



永遠の暗闇から救い出せるのは、結局自分自身なんだろうなあって。

実際虚無のとき、ひたすら世界を動かそうと頭をまわすけれど環状線をまわるのは自己嫌悪と自己肯定で、なんだかそんな光景を思い出したりしたんですよね。

 

この曲もぼくのなかでは不正解な時間に流れていそうな曲で、そういう不正解な今にふと余裕を捻出してこの曲を聴くと、その存在を頼りに、自分の思考でなんとか梯子をのぼっていけるのです。



やはり良い影のできやすい中野公演、day2で下手側の壁に見つけた2サビ終わり1拍ごとにキミが映っては消えてを繰り返すんですよね。曲の世界と混ざり合って胸にくる光景だったなあ。

 


ロングトーンや声の抑揚、他諸々の音楽用語がよく分からないけれど、とても感情のグラデーションが見事なライブの風景で、声優ならでは、雨宮天さんだからこその表現力と表現された世界にただただ立ち尽くすだけなのでございました。


Velvet Rays

イントロのカットインで眼前に流れた映像は閉じた世界の空に差し込んでくる光。

暗闇から飛び立つ一羽。

あの雲より高く遠い空へ


白鳥は かなしからずや 空の青海の あをにも染まずただよふ

 

とんでゆけ、どこまでも、等々。


信じてのロングトーンがやっぱり好きだったのと、「涙隠す雫は」で腕を払うのがやっぱり好きだったなあ。


そんな「やっぱり」だらけじゃなくて、新しい発見もしっかりあって。

それは前曲が『Abyss』だったから歌詞の「君の声」が共通していることで、この曲も『Abyss』の世界観の延長線上にある立ち位置から遠い空を眺めてもおもしろいなあと思ったのです。


遠く願いの果てに出会うのが理想の自分だとしたら、たしかに関連性があって良いなあって。


この曲が『Abyss』の後ろにあったからこそ、この曲に青を再発見できたのでございました。


ASH

【横浜/福岡/宮城】


こーーーーーのイントロ。

Blue hourの端から太陽が昇って、物語がはじまっていく。起こされるのではなく自ら目覚める朝みたいに。朝聴くと見かけによらず心の内はどんどん薪を喰って蒸気を立ち昇らせていくのです。


 

この曲の登場人物、イカロス。空に憧れ、その思いから蝋で作られた翼によって憧れた世界を自由に飛ぶ力を手に入れたけれど、太陽に近づいたことでその翼が溶け、墜落死してしまった、神話に出てくる人物。

ボードレールという詩人が『或るイカロスの嘆き』で以下の様に詠んでいます。

 

 空しくもわれ試みき、

 天空の心と果しを、さぐらんと。

 火の如き、眼の光に、

 今わが翼、くだけ散る。

 

 美に、あこがるる心ゆえ、身の焼かるるよ、

 やがて、わが墓たるべき、この淵に、

 わが名あとうる、せめてもの

 名誉さえ、与えられずて。

 

 

「身を焼かれてもなお、高みを目指す、青に、あこがるる心ゆえ」。この曲の主人公はそういう高みへ、心に抱く青が遠く離れたものだと分かっていてもそれでも手を伸ばす、そういうイメージ。


心の内に響く「声」に導かれ突き抜けたいと願い、空しくもその憧れに身を焼かるるも、「それでも」と翔び立ち続けたモノの物語。


みたいに感じられて、とても大切な物語として受け取ったのでございます。


なんだろうな、今も、これまでもぼくたちの明日を照らしてくれていた光は身を焼かれたイカロスだったのかもしれなくて。


その足掻いていくとてもカッコいい姿に何を言葉として返せばいいのか分からないけれど、だからこそ分からないことから逃げないで足掻いていこうと思うのです。


Absolute Blue

【大阪/中野day1】


いつか掴み取るという姿。

理想や夢は言うは易し、簡単に思いつくもんで。

でも、実際にはすごく遠くて。この曲でいう『青』ってそういう表象としてのそれだと思うのです。


1stアルバム“Various BLUE”のリード曲としての『Absolute Blue』はまた違ったものだしそこに見る色を語るにはぼくは3万字は書ける自信あるんですけれど社会が時間的にそれを許してくれないのでそれはまたいつかの機会。どこかで書いた気がしなくもないけれど、多分その頃より青に見る色は増えているのでまた字数は増えているはずなのだ。




この曲は青から青への物語のアウトラインみたいな曲だなと思うのです。


しばらく『青』について語ります。


『青』という色は「遠い色」なんですよ。

それはよほど物好きな方はこの記事内の『エデンの旅人』で書いた内容を思い出してもらえると思うんですけれど、『青』という顔料が日本人にとって遠いシルクロード果ての光であったように。


それは世界においてもそうで『青』という色、ウルトラマリンブルーの合成法が発明されたのは他の色からは大きく遅れをとる1800年代。薔薇やLED、ワインなどそれは物の発明においても同じで『青』は決まっていつも最後ですよね。海や空、こうしてぼくらは『青』に包まれるようにして生きているのに。


『青』という色は地球が誕生して以来最も身近に人類と関わりながら、人類が最も再現、作り出し、使いこなすのに苦慮してきた色なのです。


また、 ドイツ語では「blau」という言葉が『青』を表す言葉なのですが、「サボる」という現実から「遠く離れる」ことを「blau machen」(青を作る)と表現します。空想やおとぎ話はフランス語で「conte bleu」と表現します。そして、まるで到達し得ない理想的な存在を「青い鳥(osieau bleu)」というのも世界共通です。「隣の芝生が青く見える」のも自分より遠くに見えるからではないでしょうか。


言わんとしている『青という色の遠さ』を体感していただけましたでしょうか。


さて、未熟である状態は、しばし『青』で表されます。思うに、『青』は「弱さ」というモノを背負わされた色であるのかもしれません。「熟す」から遠く離れた状態だから『青』なのか、そもそも遠い『青』に憧れる姿がどこか弱々しいからか。ぼくは後者が好きなんですけれど。

これがこの曲での事の端である青。見えない影に捕らわれ踏み出せずにいる、指先をすり抜けると分かっていても手を伸ばす、青。



少し話は「遠さの青」に戻りまして。

そういった自然の中の恒常的な『青』をなかなか得ることが出来ないからこそ、以前として多くの人間が『青』に対して憧れを抱くのではないでしょうか。


『青』は空にせよ海にせよ、常に背景にあって手に取ることができない色なのです。まさに、『青』はいろいろな事を想起させる色であり、だからこそその遠さから「夢」や「理想」の表象とされているのです。まさに指先をすり抜けると分かっていても触れずにいられない、そういう色なのです。



この曲は、というよりはこれまでも、きっとこれからも受け取らせてもらうのはそんな青から絶対的な青への物語で。


先程遠い青に憧れる姿が弱々しいと申しましたがあれは語弊というか言葉の綾波レイでして、そう。


弱さにも二種類あると思うのです。弱さを受け入れ、その弱さを武器として生きていこうとする姿勢と、自らの弱さを受け止め認めつつ、「自分にはそこから何ができるだろう」と改善、弱さからの自立を求める姿勢の二つ。前者は「弱さに溺れる弱さ」、後者は「弱さの中にある強さ」と換言しておきましょう。

その善悪は置いておいて、結論から申し上げますと、僕が雨宮天さんに感じるのは後者です。それは押し付けかもしれないけれど、まあ、その葛藤は何度もし尽くしてきたしその話をし始めたら冷たく動かなくなるので、違くても「ぼくはそう思います」で推し進めます。押し付けじゃなかよ。

 


どんなに深く憧れ、どんなに強く求めても、

青を手にすることはできない。

すくえば海は淡く濁った塩水に変り、近づけば空はどこまでも透き通る。

人魂もまた青く燃え上るのではなかったか。

青は遠い色。

(谷川俊太郎『青』)


その姿が。

と、眼前の青に手を伸ばす姿に想っていたのでした。


Skyreach

【新潟/神戸/中野2】


そう、その青の物語はこの曲から始まったのでした。

神戸公演で見た「オイオイ」のあと身体を反らし歌う姿がめちゃくちゃ格好よくて、気持ち良さそうで。


新潟公演で見た、ラスサビで溢れちゃった笑顔がとても嬉しくて、可笑しくて。



デビュー4周年を直前に迎えた神戸公演、全力の歌を届けられなかったTrySail2ndツアー新潟公演と同じ会場だった新潟公演、そしてたくさんの想い出が刻まれた中野公演。


届けたい意志を、勝手に感じていました。



雨宮 

それで、ブログにも書きましたけれど、【はじめから】順風満帆じゃないんですよ。私は悩むタイプで、『自分の中にイメージしていたもの』、『こういう風にしたい』ということや『やりたいこと』と『出来ること』の間にギャップがあって。こうやりたいと思うことと、それを待っててくれている人のものと【私がやりたいと思っていることが】合致するのか不安がたくさんあったんですよ。不安でいっぱいだったんです。


けれども『Skyreach』を出して以降は想像と裏腹にその時その時で喜んでくれる人、私の挑戦を受け取ってくれる人がいることに最初は違和感があったんです。

自分のイメージとの違和感、「そんなに受け入れてくれるんだ」「そんなに喜んでくれるんだ」っていう、私の中でのネガティブなイメージと「みなさんがこんな風に受け止めてくれるんだ」っていう違和感があって、だんだんその違和感を繰り返す中でその人たちの前で歌えてることが違和感からパワーになっていきました。


歌うことをやめたいと思ったことも何度もあるんですけれど、今は藻掻き続けて本当に良かったなと思います。ありがとうございます。

みなさんがそうやっていろんなカタチでパワーをくれる限り届けたいと思います。(神戸公演)

 


 雨宮天

Skyreach』を歌うこともできて。CDを聞いてみると私もびっくりするんですけれどすごい声も未熟で歌い方も若い感じがして、でも逆にそれが嬉しかったんですよね。その時の私の全力を込めた『Skyreach』でしたけれど、今の私はそれ以上の『Skyreach』を歌えると思います。どっちがいいとかではなく、今の方が力強く、できることが広がっていると思うんです。あの時の『Skyreach』はあの時【だけのもので】、曲を進化させることもしつつ頑張って歌いながらも、その時その時の全力をこめていきたいと思います。お祝いして頂き、ありがとうございました。(神戸公演)



うーん。


嬉しかったなあ。


過去の肯定という訳じゃ、少しは勝手にそれもあるけれど、なんか、こう、


この人に周波数が合って良かったなって、心底思ったのでした。

そのチャンネルがずっとずっと、御本人が望むカタチで開いていてくれたら、幸せだなって。


いろんな人がいて誰に周波数が合うかはその人それぞれだけれど、この人の青さが損なわれることなく、他の周波数の人が見ても、綺麗な青い星だなあって思ってもらえるような星だったらいいなあって。


そんなことを思いもせずにあの頃これまでと同じように、あの瞬間は、でもあの頃とは違って同じ波長の仲良くしてもらっている人たちと楽しんでいたのでした。


Breaking the Dark

御自身が好きな70年代から80年代の曲とは違う、90年代から2000年代くらいだなと、感じ取っていて、ちょっと懐かしい雰囲気の盛り上がり曲ですよねというこの曲。

 

新潟公演では、推薦された曲なのでどう歌うかイメージがしづらかったものの、Bメロの独特な切ない場面展開のところなど、この曲の良さや好きな場所を見つけたこともお話されていましたね。Bメロからサビへの駆けあがりっぷりがたまらないですわねえ。

 

さらにはタイトル秘話も飛び出したり、サビの振りもシンプルで気持ちがいい感じになったとお話されていたり。

 

 

「この曲はライブ曲枠で、みんなの盛り上がる声を聴きながらドヤ顔をね、したいと思うので歌うときは盛り上がって頂けたらなと思うんですけれど。」と同じく新潟公演でお話されていましたけれど、そのドヤ顔で声援を纏いながら踊るイントロのダンスが好きなんですよ。あそこめっちゃ格好良くて。

 

そんでもってラスサビ前の間奏、手拍子を煽ったあとの揺れるようなダンスも良かでしたよねー。


大好きだからもう1回言いますね。ラスサビ前の間奏、手拍子を煽ったあとの揺れるようなダンスが大好きです。


大好きだから死ぬまで言い続けますね。

 

 

最後はしっかり壊していってねえ。ステージ上にあったのは絶望を乗り越えた姿。

ほんといつも壊していってくれるんだよなあ。心の隅のどんな澱みも。


なんか歯ブラシのCMみたい。


在り難いなあ。

 

サビ終わりそうやって高みへ、理想へ手を伸ばして。でもなんだか一緒にやっていると円陣を組み手を重ねて掲げたみたいで。


アンコール

After the Tears

「アンコールありがとうございます。曲の主人公を歌わせてもらってきましたが、この曲は私からみなさんへ歌わせてください。」



雨宮

 横浜でボロボロって崩れてしまって今日はと思っていたんですけれど、落ちサビあたり自分の気持ちと相まってダメですね。皆さんを見てると泣いている方もいて、私もだよって。泣いちゃう曲になっちゃう。いいですよね、この曲がアンコール1曲目にあって。(大阪公演)

 

 

 

 雨宮

 After the Tears』の「for you」もそのときの気持ちで長さと、ビブラートのタイミングも自然と変わるんです。その時その時の私の想いが届いていたら嬉しいです。(神戸公演)

 

 

 

雨宮

んー、なんかね、『After the Tears』はおひとりおひとりに届くように歌わせて頂いたんですけれど、みなさんが受け取ってくださってる姿を目にすると、自分の気持ちを発信して、届けて受け取ってくれる人がいるっていうのは幸せなことだなと1階や2階を見ながら思いました。幸せな時間をありがとうございます。(中野day2)



時に涙交じりに、時に晴れやかな笑顔で届けてくれた言葉ひとつひとつが印象に残っています。
涙を朝露にたくさんの光を受けておおきく美しく凛と咲く花が、好きなんだよなあ、等々。

けっして涸れない意志を吸い上げながら、あなたの星へ葉を伸ばして、あなたらしく枯れないでいてほしいなあ。


「私ね、顔の面積に対して口が大きいんですよ。ニコって笑うと口が大きくて。」、中野day2ではそうお話で切り出されましたね。直近の『The Only BLUE』のリリースイベントでも笑い話ながら触れていらっしゃいましたし、コンプレックスだったのかなと思いつつ。


でも、そのお話の中で、でも、ライブって前から後ろ、端から端まで、いっぱい「今楽しいよ!!」って伝えるのに、後ろの方まで見えてますけれど、口が大きいおかげで伝えられるなって。【声だけじゃなく】顔でも伝えられてたら。「楽しい!!」「嬉しい!!」を思いっきり全力で、これからもしっかり自分の想いを届けていきたいです。」と。



以前のお渡し会及び伝声管のブログ記事にて

「人が自分を受け入れてくれているという前提が自分の中に無いので人と話すのが怖いのです。」

 

 と、仰っていました。


実際にデビュー以前の様々なイベントや初めてのプレリリースイベントにその後のソロイベント、大きなステージの中でその言葉通りに見受けられました。その不安は計り知れないものだったと思うのですよね。

 

だからこそ、ソロイベントでのこちらを凄く気遣ってくれる姿が、その優しい空間がとても心地よくて。その空間は様々な空を重ねるに連れ心地の良さが増していきました。


僕自身もそういった前提が自分の中にない人間だったりするのですが、雨宮天さんのイベントは「受け止めてくれている。」と凄く感じるのですよね。14年大晦日に「変わらなければ」という記事を更新してからは、だんだん見違える程に本当にその時々の時間を楽しまれていて。


場を重ねるごとに語られる量も多くなり、その内容もより御自身の考えに近づいていきました。ブログの記事でも、各リリースイベントでも時折自分を曝け出してくれる事が増えてきた様に感じます。『Various BLUE』のリリースイベント東京昼の部では次の様に語っていらっしゃいました。

 

 

「同じ日本語でも自分と相手では分かり合えてないって事はある訳で。でも、発信していけば考え方は伝わると思うんですよね。なるべく自分の考えを書いて、全て伝えきれないにしても回を重ねる事によって伝わったらいいなって、人間性を分かってもらえればいいなって。正確に伝えることは出来なくとも、言葉の定義を狭める事は出来るんじゃないかなって。私のブログを読んでくださる方々は私に興味を持ってくださっている方々なので、なるべく私がどんな風に考えているのかを書くようにしています。」

 

 

自分の曝け出す事って凄く怖いことだと思うのです。でも自分に興味を持ってくれている人になら人間性を曝し出してもいい、そう思ってもらえているのかな、と。

 

同じくお渡し会及び伝声管のブログ記事で

「ファンの方は凄く私を受け入れてくださっているのだなと肌で感じられました。」

 

と、仰っていました。そう感じてもらえているのだと知れたその一言が、どんなに嬉しかったことでしょうか。伝声管で応援してもらった事以上に、その日の記事のその一言がとても嬉しかったことを憶えています。

 

先程言葉を引用した『Various BLUE』のリリースイベント東京昼の部では登場から19分立ったままフリートークをされていました。凄く楽しそうに、饒舌にお喋りされている姿が、曝け出してくれている姿がとても嬉しかったです。凄く考えて、言葉を、自分の言葉で届けようとしてくれる人だから勘違いしたり、甘えないようにしなくちゃ、ではありますが、その言葉を大事にしたいと思います。

 

「前は『苦しいけれど前に進まなきゃいけないんだ。』っていう目線の鋭い気持ちだったのに対して、今の自分は前に進んでいけるなんだな、という自信を得た事で、楽しみながら明るく前に進んで行ける自分がいます。」


その言葉の通り、語りに込められた意志だったり御本人の色は変わらぬまま、その語りは“Various SKY”、“音楽で彩るリサイタル”、“Aggressive SKY”、各リリースイベントなどを通して、こちらを信頼してくれた上で一緒に楽しもうと語ってくれているなあと感じられて。



自分の気持ちを発信して届けてくれる、受け取らせてくれる幸せを感じながら、受け入れていくのでした。



その大きな口が作るまさに満面の笑みがこちらの口角もあげてくれて、その大きな口が発する「楽しい!」に楽しくなって、その声に導かれて、今とても幸せなのです。

 

 

 

雨宮天さんがどんな未来を受け止め様とも、「自分の自分への理想」に向かってこだわりと成功体験をエネルギーにして楽しく前に進んでいって下さるなら、どんな雨宮天さんでも受け入れていきたいですね。

 


MC3

雨宮

本当に人と同じで、普通の人よりもうちょっと臆病なんですけれど、こんなところに立たせてもらった、他の人じゃ見られないこんな青い空間を見せてくださって。みなさんが受け取ってくださる限り無様でも地に張ってでも、みなさんに【青い世界】を見せていけたらと思います。どんなに怖くてもみなさんにもらった青パワーで乗り越えていきますから。みなさんのおかげでいい日になりました。


という決意が嬉しかった横浜公演。

 

雨宮

私は自分のビビリや臆病を皆さんに隠す気はないんです。きっと同じような人がいる、本当は頑張りたいって人もいると思うから「1人じゃないよ」って、私だって臆病だしビビリだけどすごく上を目指していたいから。「1人じゃないから頑張ろう」って、同じ小心者の仲間のみなさんに「一緒に頑張ろう」って伝えたいです。逆に私の方が「1人じゃない」って勇気をもらってて。私はビビりだし【】だけど、こんなに大勢仲間がいるから、そんな怖いものあるかって思います。いつか(『After the Tears』を)うるっとせずに歌える日が来るのかな。

 

という大阪公演の語りは言葉では名前のつけられない意志を再び灯してくれて


「みんな私のこと好きなんだなあって(笑)」「本番になるとド緊張しちゃう。でも、それも私らしい。Skyreach』を出した頃はガチガチに緊張していたけれど、4年経っても緊張するなら『そういう人間性』なんだなって。」という笑顔が、あの頃いつか見たかった景色のひとつってこれだったのかなと思った仙台公演。


その「私らしくこのツアーを完走したい」と再び靴紐を結んでたどり着いた中野公演day1。


「アンコールのMC、私大好きなんですよ、ラフな雰囲気で話せるから。(中略)もーなんか、このツアーをやってておしゃべり大好きでたまらないんですよね()」

 

まるでこのツアーをそのまま凝縮したかのようなその楽しそうな笑い声が、この日々の充実っぷりを自分にも思い出させてくれていたのでした。


時は保存できないけれど、こうしてかけてくれた言葉ひとつひとつは冷凍保存できると思うんですよ。

理想を求めるが故に身を焼かれるような熱に苦しいなって思うとき、いつもそんな言葉たちが寄り添ってくれて、自分に戻れるなって思うのです。


このツアーでかけてくれたひとつひとつの言葉に、ありがとう。


チョ・イ・ス


楽しかったなあ。

楽しそうにされているのが変わらず楽しくて、嬉しくて。

あの空間で歌う歌を、腕を広げて「これがMy Song」と歌ってくれているのが、うーん、にゃー。

猫に名前をつけるみたいに「なんじゃろななんじゃろな」って思ってるんですけれど、にゃーん。


「楽しむ」という目標を立てた前回の中野、“Aggressive SKY”。その同じステージで、あれほど楽しんでいる姿が見られて、「楽しい」と言葉にしてくれてるのが、何より何よりなのです。



『チョ・イ・ス』は気持ちを軽やかにしてくれる曲。街中をスキップしながら、自分の好きな場所に、好きなことをしに行くようなイメージを持った曲です。」
と、以前フリーペーパーアニカンVol.141で語られていて。

このツアーは、これまでもそうだったんですけれど、その言葉の通り自分の好きな場所に好きなことをしに行くようなイメージがあって。


好きな場所で。
好きなことする。

あなたと、あなたとお陰で出会った素敵な人たちがいる場所で。
あなたと、あなたとお陰で出会った素敵な人たちと楽しいことを。


昨年末の『Agressive SKY』が終わって、普段からとても仲良くしてくださっている方があの瞬間を自分に興味もって見に来てくれる人は味方だって認識してくれたようで、みたいなことで振り返っていて。ぼくもなんだか、「仲間なんだ」って、「ここが居場所だな」って思ってもらえたんじゃなかろうかと、勝手に感じられてその空間が居やすい、癒しのある場所だったらいいなって勝手に思ったりしたんですけれど。


このツアーを通して、あなたとお陰で出会った素敵な人たちとたくさんの時間をいろんな場所で色濃く表情豊かに過ごして、ようやく仲間のひとりになれたなあと思えたのです。

真にちゃんと自分を自分として向き合えるというか、受け止めてもらえるなって安心できる空間というか、うーん。語りって誰に語るかで変わってくると信じているんですけれど、すごく自分の源泉に近い色で接することを赦してもらえるというか。

こってり。ぽってり。なんだろうな。

「ここが居たい場所だなあ」ってこれまで言語としてでなく感覚として感じていて、それは都度そういう青に触れるたびに『居場所』として言語化されていたのだけれど、なんだかこのツアーはこれまでのそういった発露とはまた違った、「ようやく仲間になれたなあ」「居ていいよって言ってもらえたのかなあ」ってそういう『居場所』として、包まれていたのです。

lilas

そんなことを千秋楽考えながら。

 

もともとアルバム入る予定ではなかったというLilas』。

制作の上で聴く回数を重ねていく内に心境の変化があったそうで、「ライブで歌っている姿がいろいろイメージで湧くようになってきて、この曲はアルバムに必要な曲なんじゃないかって思うようになりました。」と、またこれまでの私の曲ってみなさんと一緒に歌う曲って多くないじゃないですか。だからそういう曲も1曲あってもと思っていたのでアルバムにいいじゃないっていれたんですけれど、結果的に入れて良かったです。」神戸公演でお話されていましたね、

 

さらに、このツアーがアルバムの制作の途中で決まっていたので、ツアーをやるということを頭に入れて制作していたので、ツアーが決まっていなかったら全然違うアルバムになっていたんじゃないかなって思います。ツアーがあるとみなさんの笑顔が浮かぶんですよね。」ともお話されていて。その言葉の通り発売前からライブの光景を意識されていましたよね。

今回のアルバムではそういった『こちら』を意識にいれた曲も届けてくれたのが嬉しかったなあ。

 

 

 

 

この曲について作詞作曲をされた塩野海さんは次の様にtweetされています。

 

 

 

「⇄」

 

それはあの空間を支配していたモノで。

猫と小学生しか知らないような二度と思い出せないような道のように、存在は思い出せはするけれどうまく再び辿れないような、そんな時間。

 

『毎日頑張りすぎている 君の背中に 「おかえりなさい」と言う場所がここにはあるでしょ?」

 

のように、投げかけられているような歌詞の1つ1つのフレーズは、『信』という言葉の通り人の横にいれるのは人ではなく言葉だから、全部そのまま贈り物として返したいフレーズで。

 

そんなやり取りとしての、 「⇄」

 

それでも、しっかり全部そのままは受け取れられてないのでしょう。

 

向こうから届けてくれたものを100%源泉のままに受け取ることなんてできなくて、それは逆もまた然りなのでしょうし、互いに「そんなことはないよ」と思いつつ向こうから届けてくれたものに釣り合う「何か」を返せているわけではなくて。 

 

全部をわかり合うことなんてできなくて。

 

でも、あの空間の「⇄」は『わかり合う』というよりは『わかち合う』が近ったように、今更あの景色を名前をつけて画像を保存しようとしているのです。

 

「おもしろい」はわかり合うことができるけれど、「好き」はわかり合えないと思うのです。

 

「おもしろさ」という言葉は少なからず、ある程度そのモノについてわかっていないと出ない言葉だなと思います。ある映画を見ていておもしろいと思ったとき、英語をおもしろいと思うとき、彼女の話をおもしろいと思うとき。

自分の脳内で「何か」がパチンとはじけた瞬間があって、わかる瞬間があって、それがわかったから「おもしろい」と言うのではないでしょうか。

 

それに対して「好き」という言葉は、理由のいらない、理由のわからないものだと思います。科学的に突き詰めていけばわかるのかもしれませんが、個人的には「理由はわからないけれど、気持ちが楽になるものだ」だと思います。

あの映画が好き、あの空間が好き、あの人が好き。どれも理由があってというよりもまずは先に「気持ちいい」ありきのシチュエーションではないでしょうか。

 

人それぞれの「好き」は違うから、人それぞれ歩んできた道、過ごしてきた街、積み重ねてきた価値、「気持ちいい」と思う周波数は違うからぼくらはわかりあえなくて。

でも、わかりあえなくとも、わかちあいたい。

その気持ちはわかるのです。

同じモノを観て、聴いて、触れて。感じ会いたい。同じ気持ちになりたい。

幸せな感じをわかちあいたい。

 

あの空間を支配していたのは、そんなモノではないでしょうか。

 

あの時「ありがとう」って言葉が言えて、「言葉」があって本当によかったと思ったんです。

 

人間が言葉を作ったのは想いをわけあうため、

人間が進化したのはなんでもひとりで出来るようになって独りぼっちになりたいからじゃなくて、

わけあいたいからではないでしょうか。

 

 

また、塩野さんは次のようにも仰っています。

 

心の一等地を吹き抜けていった歌声に融けていった感情。

 

この曲の、ラストに向けて「Ha~♪」ってそれまで歌詞で紡がれてきたものが極まって容易に言葉にならない思いの迸りとして感嘆詞になるところが凄く好きで。

 

 

ライブとか、リリースイベントとか、こういう日の帰りっていつもの帰り道が違う輝きを帯びて見えて。そんな理想に燃え輝く星空の方へ「あれ欲し」って歩いて帰るのだけれど、日常が戻るに連れていつもの風景/長年住み慣れたどこまでもけだるく平穏な景色になってきて。

 

そんな景色に「はぁ…」って溶かすのが毎日の呼吸になっていて。

 

何度も何度も思い出しては込み上げてくるのは

 

そんな「はぁ…」があの空間を媒体に、最大級の肯定に似た感覚として「Ha~♪」と感嘆詞になる、曲の終盤。

溜息を全部が全部、言葉を失うような素敵な景色への詠嘆の迸りとして濾過してくれる人の姿。

 

下を向いて漏らした「はぁ…」は、前に差し出されたマイクへ「Ha~♪」と素敵なメロディーになって、同じ周波数のもとに集った人達の声と合わさって、ひとつひとつは強度は不足するけれどそれが合わさって合板のように強固で美しいものとなって、

 

そして最後「Uh Yeah」と最高の昂りとなって、昇ってゆく。

 

 

強く言えばそれは依存かもしれないけれど、あの頃よく言っていた「需要と供給」という言葉、その言葉を冠するのはちょっと誤用かもしれないけれど、互いにとって今すごく気持ちのいい需要と供給の関係でいられている気がする。

 

 

その関係も今後も変わっていくのだろうけれど、なんだかそれも、そのときに自分をどう変容できるのか、どんな存在で居てくれるのか楽しみなのだ。


wアンコール

(中野day2)

 

 

雨宮

Wアンコールありがとうございます・・・。だ、だだだだって、だっておわりのやつ流れてるじゃん!


Fleeting Dream

 

再び天ちゃんダンサーズを呼び込み、流れ出したのは『Fleeting Dream』

 

歌詞を見直すと、やっぱり、びゃー。

 


 

『共に刻んだひび割れた誓い/』での、歌詞そのままのダンサーさんの振りがやっぱり好きで、これまで以上にその言葉がよりダイレクトに肋骨を縫って空っぽな部分に響いてきて。

 

離れかけた自分の手をまたしっかり握りしめられるのは、ほんとうにこの人のお陰で。この人に周波数が合ってほんとうによかったなって。

 

 

そんなことを融かしながら、サビの振りをやっていたんですよね。


サビ終わり、「ずっと消えないで」と手を伸ばす、その指の隙間からこぼれ落ちていく気持ちについて、ずっと考えていたい。


ただただ、ずっと消えないでとなぞっていたのでした。

 

でも、うまく言えないけど、絶対消えないのだ。

 

サビで掲げられ、照らす一面の青。

その青をかきまわすのだけれど、青はいくら青を混ぜても青なのだ。

掻き混ぜても、足掻いても藻掻いても、そこにあるのは

 

綺麗な青なのだ。


と、カラス共にガハハと、「負けねえですぞ」と、離れかけていた君の手をまた握りしめたところで一旦筆を置くのです。


手を伸ばせるっていうのはそれだけでも微かもしれないけれど、希望なんだなあ。


デルモア・シュワルツという作家が『In dreams begin the responsibilities(夢の中で責任が始まる)』という短編小説を残しています。夢を見た瞬間、そこには責任が生まれ様々な苦難や葛藤が始まるのです。だから、僕は何かに葛藤している人って凄いカッコいいと思いますし、ずっと雨宮天さんを「カッコいいなぁ。」と思っていました。

 

 

「私は私のままでいながら、ネガティブがくれた短所の自覚を味方に、ちゃんと変わっていけるように頑張ります。」

 

という2014年大晦日の記事での言葉通り、その有言実行っぷりには時に戸惑いを覚えるほど凄まじいものでした。


以前とある記事で「大切なものは?」という問いに「こだわり」と答えた雨宮天さん。声優として「いい意味で自由な演技ができる様になりたい。」、「声優として曲の主人公達の気持ちを歌っていきたい。」、これまでの雑誌記事を読み返してみても、ほぼ毎回の様に『こだわった部分』というキーワードが盛り込まれているのです。

 


それは今回のツアーも同じだったようでパンフレットには「歌を通し言葉を通し思いを伝えること。曲中はその曲の主人公としての思いを、MCなどでは私としてのみなさんへの思いを。皆さんから伝わってくる思いも沢山ありますし、思いに溢れた場所であらせ続けたいです。」と語られていました。



雨宮

今回ね、いろんな曲を歌うじゃないですか。11曲を主人公になりきって演じるように【歌ってきました】。私の中で歌うことは声優として演じることと離せないもので、全部繋がっているんです。このライブで歌として演じることも、途中にナレーションが入ったりMC11回長いのも今回ならでは、私ならではなのかなって。声優っぽさをまだまだライブに【生かしたい】って思えた公演でした。ヘッドセットに挑戦してみたり、そうやって表現の幅を広げつつ声優としてのこの可能性を、ライブは可能性があるなって、どういう風にやってもいいなって、私は声優としての、声優ならではのライブを【目指したい】。(中野day1)



その時だけの時間、その時だけの私、SKYを私に見立ててるんですけれど「あ、私にしかできないライブってあるんだ」って【思えて】、このタイトルにして良かったって思っています。(中野day2)



という、中野day1でのご挨拶が、御自身の言葉によって御自身のこちらでは慮りきれない苦しみが肯定されたような気がして嬉しかったのです。



そして、これからも『こだわり』を大事に進まれていくんだろうな、と。


「周りを振り回しているという自覚はあるんですが、逆に助けられている部分もあると思うんです。」

 

  

単にネガティブと言っても、青にあこがるる心ゆえ恐れながらも確かに『こだわり』を燎として自分の自分への理想へ飛んでいける人。ネガティブがくれた短所の自覚を味方に、ちゃんと変わっていける、“Various SKY”での一区切りでそう思ったように、改めてそういう青い熱を持った人だなと思いました。



ラジオや他のイベント、様々な所でネガティブだった彼女が「今はこんなに楽しく、たくさんの素敵な仲間たちとお仕事をしているんだぞ。」という事を凄く楽しそうに発信ているこの時が何とも言えない嬉しさを与えてくれて、そしてその惑星にずっと名前をつけられずこうして鉛筆を旋回させているのです。

 

 

『青』自体が限りのなさの色である様に、これまでの青の旅が限りのないものであった様に、どこまで広がっていくのだろうという果てしなさを感じます。

それは空の青が宇宙の無に等しい無限の様に続いていると思うからでしょうか。


 

実際『青色』というのは、未だ様々な分野において未解決であり、そこに夢が立ち現れる訳でして。


未来はいつも『青写真』から始まるのです。

そして、その様な『青さ』を雨宮天さんの『青』もしっかり内包している様に感じるのです。その青は笑顔のち涙、きっと何度も揺らめきながらここまで続いてきたように、これからも広がっていく気がします。

これから、どんな青写真を描きどんな未来に青いインクを落としていくのでしょう



あのトニックな癒しの空間に恋しささへ覚えるのは、青という色というより、ひとつの心の状態とも言うべきものが、毎日の生活とはちょっと違った所へ僕達を誘ったからでしょうか。

 

 

 

赤や黄色、黒や白だとこうはいかない。

だからこそ惹かれるし、この人の様になりたいと思えるし、言葉に代え難い色なのだと思います。

 

 

僕が感じてきた事、この記事だけでなく手紙やブログで書いてきた事も含め、そこに立ち現れるのは雨宮天さん御本人ではなく僕が作り上げた雨宮天さんという虚像だと思うのです。


もしかすると、いえ、必ずどこかでその虚像を御本人に押し付けているんだと思います。きっとここまでの記述で御本人からすると「ちがうなぁ。」というものもあるでしょう。「こういうことかな?」の気持ちで僕から出た気持ちは、御本人のフィルターを通してろ過されると「こうだ!」という決めつけになっているかもしれない、そう常々思っています。でも、まあ、それでいいんじゃないかなと思うのです。思考の放棄とか楽観的という訳ではありませんが。

 

 

 

つまり、同じ『青』という一つの色から出発しながらも、雨宮天さんは雨宮天さんの色を、皆さんは皆さんの色を生きていて、僕は僕の色を生きている、という事です。 



周波数がガッチリ合っているわけじゃなくて。


苦しくて、何かを探すようにラジオの周波数のダイヤルを回していく。

そこでうまく、僕の周波数に入ってきたチャンネルは雨宮天さんだったということ。


ダイヤルを御本人の周波数に近づけていくごとにノイズは少なくなっていくけれど、周波数がガッチリ合わせちゃいけないのだろうし、不思議とガッチリ合わせたらチャンネルは聴こえなくなって。また少し回すと、という具合にノイズはなくなることはないのです。



自分の周波数は自分だけの源泉へと合わさるもので。

ぼくらが周波数をガッチリ合わせないといけないのは、あの頃ダイヤルを回して探していたのは、自分の周波数じゃないでしょうか。



それがThe Onlyということではないでしょうか。



そんなことをツアー中聴いていて、こうして書くことでまたあの空間やその言葉に触れていて、改めて自分に読みきかせていました。

 

 

遠さの中でもまるで隣り合うかの様などこか親しみやすさを感じる青、でもそれは雨宮天さん独自の黒にも白にも染まらない青で。


例え黒や白に傾いても、そこには「自分の人生を絶対に成功させたい。」と語られている様に、その黒や白の果てには遠く、まるで空の青の果てしなさの様に揺らぐことのない『青』が感じられるのです。


「まだまだ経験が浅いことを自覚しつつ、過度に自分を信じすぎないように気をつけています。」と猜疑心を持つことが自分のルールと仰っていますが、その揺らめきでさへ揺るぎのないものに感じるのは不思議ですね。

何をも受け入れぬ揺ぎのない青さ。



その『青』さ故に多くの夢を背負わされるかもしれませんが、受け止めつつも受け入れることはなく自分だけの色を生きて、絶対的な『青』に向かって進んでいってほしいなと思います。


The Only SKY


The Only BLUE


 

ほんとうに、青が似合うなと思いました。

 

そしてあなただからこそ見せられる青に、生きていけるなと思いました。

 


中野day2 Wアンコール。

そしてこの最高のツアーを作ってくれたたくさんのスタッフさんにも拍手をお願いします!」と労った雨宮天さん。



雨宮天さん、ダンサーのみなさん、スタッフのみなさん、関わった全ての方々。素敵な気持ちをありがとうございました。


雨宮

「えー、それでは最後はマイクをとらせてください!(大きな口で)ありがとうございました!」


大きな口で届けてくれたモノが宝モノになりました。


届けてくれた言の葉、

届いたかもしれない言の葉。

届いたのは届かせたかったものの

端っこかもしれないけれど、

それがいつかの事の端になってくれたら。